2003/05/05
松井とイチローがアメリカで直接対決を果たした。そんな今から一世紀も前、日本からアメリカに渡り野球をした男たちがいた。
日露戦争まっただ中の1905年、カリフォルニアまで船旅を終えた早稲田大学の野球部一行は、列車に乗り換え、目的地のシアトル(ワシントン州)に到着した。駅では、400人あまりの人々が一行を出迎えたという。早稲田大学はワシントン大学と2試合を行ったが、その試合には、当時8万人だったシアトルの人口のうち、1000人を超す人々が観戦に訪れたという。試合の結果は12−3と4−0でワシントン大学が勝利した。
この遠征こそが日米初の野球交流試合となった。今イチローや佐々木選手が活躍するマリナーズのあるシアトルは、その後の30年の間、日米野球の交流における拠点となった。
▼シアトルを結ぶ蒸気船に乗って
日本とシアトルは1905年から1936年までに、頻繁に野球の交流を続けた。その間、日本からシアトルへは13回、シアトルから日本へは10回の遠征があった。1908年にはワシントン大学が来日し、日本でプレーした最初のアメリカの大学となった。1914年には日系人で構成されたシアトル・ニッポンが日本を訪れ試合をした。1921年にはネイティブ・インディアンのチームであるスクゥアミッシュ・トライブが来日している。
早稲田大学は30年の間に、5回シアトルを訪れ、法政、慶応、明治、立教大学の野球チームもアメリカの地を踏んでいる。1935年と36年には、新しくできたばかりの日本プロ野球から東京ジャイアンツがシアトル遠征を行っている。
この早稲田大学の米国遠征は、同大学野球部の創設者で大学野球の父として知られる安部磯雄氏が、政治家を説得して実現した。また、明治時代以降シアトルへ移住した多くの日系人の存在も大きい。シアトル・ジャパン・クラブはこの遠征の出費の一部を負担し、チームの一人ひとりに皮のスーツケースとオレンジ一箱を贈ったという。シアトル日系人の好意に加え、シアトルと横浜を直接結ぶ蒸気船という交通の便が30年間の日米野球交流を支えてきた。
最初の早稲田のシアトル遠征から3年後、今度はワシントン大学が日本を訪れた。12人の選手を乗せた土佐丸は、シアトルを8月18日に出発した。15日間の船旅の間、選手はファーストクラスのキャビンに泊まり、和風・洋風の料理を楽しんだ。東京での最初の練習だけでも、2000人、そして試合当日には7000人もの観客が訪れた。ワシントン大学の選手への歓迎は熱烈だったようで、試合がない時には東京見物や劇場にも招かれ、政治家たちとも面会したそうだ。最初の試合はワシントン大学が4−2で勝ったが、次の試合は早稲田大学が勝利。ワシントン大学はその後他の大学とも対戦し、最終的に6勝4敗という成績だった。
▼日系人が日本にやってきた
日系アメリカ人の野球チームも日本を訪れた。1914年、シアトル・ニッポンとアサヒクラブは、はじめて日本の地を踏んだ。アメリカの日系社会ではもともと野球に対する関心が高く、1904年、すでにスポンサーがついた野球チームがつくられていた。日系人野球チームは、その後もタコマ、ケント、ファイフ、オーバーンなど次々に西海岸地域を中心につくられ、遠く内陸に入ったネブラスカでもチームがつくられた。
日系人チームはその後も何回も日本へ訪れている。選手のほとんどは、顔こそ日本人だが、アメリカで生まれ、アメリカで育った二世たちであった。だから、彼らの親が住んでいた日本という国に大変興味を持っていた。日系人選手たちは、日本滞在の間、瓦屋根、狭い通り、下駄、人力車などを好奇の目で見ていたという記録が残っている。1923年に、シアトル・ミカドが日本へ遠征したのは、ちょうど関東大震災の後だった。
こうした交流により、日系人社会の中ではますます野球がポピュラーになっていった。
最後に日本を訪れた日系人チームは、タイヨー・アスレチックだった。当時同チームでセカンドを守っていた平林ジョーさんの親戚である下島コニーさんは「当時、タイヨー・アスレチックは(日系社会の中で)最も強いチームで、タイヨーに入って日本に行くのが子供たちの夢でした」と語る。
このほか、ネイティブアメリカンのチームであるスクゥアミッシュ・トライブとセミプロ球団のカナディアン・スターズが1921年に来日している。その日本滞在中、米国のプロモーターが遠征資金を持ち逃げするという事件が起こっているが、遠征した先の人々の好意や、試合の入場料でどうにか予定通りの2ヶ月の滞在を続け、帰りの船賃も工面できたというエピソードが残っている。
▼アメリカに戻ってきた日本の野球
しかし残念なことに、東京ジャイアンツと早稲田大学が1936年にシアトル遠征したのを最後に、日米野球交流は途絶えてしまった。日本国内でプロ野球がポピュラーになってきはじめたからという理由もあるが、当時の世界を見れば大恐慌が起こり、国際政治の緊張が高まっていた時期である。今年のシアトル・マリナーズの日本開幕戦がイラク戦争の影響で中止になったのと重複するものがある。
長く途絶えた日本とシアトルの野球のつながりが復活したのは、1992年に任天堂の山内社長がマリナーズのオーナーになり、イチローや佐々木選手が活躍し始めてからだ。シアトルをはじめとするワシントン州、そして広くは西海岸地域には、日本人コミュニティーが多く存在する。シアトルには日系企業が多く、アメリカ任天堂社も同市に本社を構えている。
日本の野球は、アメリカにようやく「戻って」きたのである。
そんなことに思いを馳せると、メジャーリーグをもっと奥深く楽しめるかもしれない。
| 日本からシアトルへ 1914: シアトル・アサヒ・クラブ、シアトル・ニッポン 1918: シアトル・アサヒ・クラブ 1920: シアトル・ミカド・クラブ. 1921: スクゥアミッシュ・トライブ、カナディアンスターズ、ワシントン大学、シアトル・アサヒ・クラブ 1923: シアトル・ミカド 1926: ワシントン大学 1933: シアトル・タイヨー・クラブ. 1936: シアトル・タイヨー・クラブ シアトルから日本へ 1908: ワシントン大学 1913: ワシントン大学 1905: 早稲田大学 1911: 早稲田大学、慶応大学 1914: 慶応大学、明治大学 1916: 早稲田大学 1921: 早稲田大学 1924: 明治大学 1927: 早稲田大学 1928: 慶応大学 1929: 明治大学 1931: 法政大学 1932: 立教大学 1935: 東京ジャイアンツ 1936: 東京ジャイアンツ、早稲田大学 |
◆References:
--Wing Luke Asian Museum Archives, Ryoichi Shibazaki, "Seattle and the Japanese - United States Baseball Connection, 1905 - 1926
--Baseball: A pastime with a past (2003, March 20). The Seattle Times
--Kerry Nakagawa, "Through a Diamond: 100 Years of Japanese American Baseball History." Japanese American National Museum
http://shop.store.yahoo.com/janm/througdiamke.html
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日本の野球がアメリカに"帰ってきた"