2003/03/28
フルブライト計画とかフルブライト奨学金って聞いたことありますか?
アメリカ上院議員であるフルブライト氏が戦後世界の教育交流のために設立したもの。
イラク戦争の真っ只中、彼が唱えた平和への道に耳を傾けてみたい──。
「全世界を平和へ導く最も効果的な方法は人物交流である」
この理想の下、広島への原爆からわずか2週間後、J.ウイリアム・フルブライト米国上院議員は交流計画の法案を議会に提出した。議会提出の当日、東京では昭和天皇が日本占領政策を統括する連合軍総司令部を訪れ、総司令官ダグラス・マッカーサー元帥と会談していた。そして、フルブライト計画は日本降伏から43日目の1945年9月27日に誕生した。
フルブライト交流は半世紀にわたり、日本を含めた約150カ国、約20万人に留学の機会を与えてきた。日米間では今までに約6500人が日本からアメリカに、2000人がアメリカから日本へと渡った。同窓生は「フルブライター」と呼ばれ、現在、教育、行政、法律、ビジネス、マスコミなど幅広い分野で活躍している。
例えば、ノーベル医学・生理学賞を受賞した利根川進、UNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)総指導者となった明石康、経済企画庁長官およびいくつかの国務大臣を歴任した近藤鉄雄、物理学者で東京大学学長の有馬朗人などがそうだ。
▼きっかけは広島と長崎の原爆
フルブライトが交流計画を作る直接のきっかけとなったのが広島と長崎への原爆だったという。フルブライトは、戦争は権力のぶつかり合いで起きるのではなく、お互いの無知、誤解、無関心から生ずるもで、戦争を2度と起こさないようにするためには相互理解の深めることが必要で、その最たるものが教育人物交流だと考えた。フルブライトは後にこう言っている。
「この留学生計画は、米国と世界中の若者が互いの国の実情をよく知り合うことによって、意見の相違、対立は話し合いでこそ解決すべきで、武力で制圧すべきではない、という共通認識が広がることを期待してつくったものだ。だれしも自分の友人に銃を撃つことはできないはずだし、そんなことが起きてはならないからだ」
フルブライトは国際主義者としても有名で、まだ議員になりたての時、第二次大戦後の国際秩序作りにおいて、アメリカが国際政治に積極的に関与し、議会は国際連合設置を支持する、という決議案を提出した。また、冷戦下の共産主義者弾圧の「赤狩り」に立ち向かった数少ない政治家で、ベトナム戦争批判の口火を切った人物としても知られている。
アーカンソー州に生まれ、大学まで隣のテキサス州にしか行ったことのなかったフルブライトだったが、大学最後の学期に大学院部長にたまたま紹介されたローズ基金で1925年から3年間イギリスへ留学、そこで初めて国際政治に関心を持ったという。このイギリス留学を彼は「私の一生を左右した出来事」と振り返っている。
▼フルブライト計画は占領政策の一環だったのか?
日本とのフルブライト交流は52年から始まった。それ以前はアメリカの占領政策の一環としてのガリオア基金で多くの日本人がアメリカへ渡航したが、それは日本からアメリカへの一方通行でしかなかった。
占領政策が終わり、独立した国家同士の交流としてフルブライト計画がスタートしたが、「自律性」と「共同運営」という点でガリオア基金とは違っていた。独立した運営委員会を置き、アメリカ議会は「金を出すが、口を出さない」という体制を保った。
アメリカ政府支出で賄っている以上、アメリカの国益のためではないかとの批判は創立当初からあった。しかし計画に携わる人々は、時の世界情勢や短期的な国益に左右されないように気を配った。こうしてフルブライト計画は威信を築き、半世紀の間ずっと続いてきた。
フルブライト交流計画ではまた、二国間共同で運営され、委員は各国から半数ずつ選出される。アメリカからの一方的な押し付けにならないようにとの配慮である。
54─68年まで在日米合衆国教育委員会の事務局長を務めた西村巖は「安保闘争をはじめ、そうした出来事は交流計画に全く影響を与えなかった」と振り返る。また当時の理事も、その後のベトナム反戦運動が高まった時代、大学紛争が激しくなった頃も、フルブライト委員会はむしろ意識して中立性を保つことを心がけた、と語っている。
▼存続の危機を乗り越えて
しかし、ベトナム戦争でアメリカの財政が苦しくなり、その一方で日本が著しい経済成長を遂げ、円高が進むと、フルブライト計画に財政的な危機が訪れた。69年には、交流計画への予算は50%も削減され、その後なおも円高が進み、存続の危機にまで追い詰められた。
これに対し、それまで金額ベースで一番の受益者だった日本は、79年から日米教育委員会を発足させ、運営資金を日本政府が半分負担することを決めた。また、フルブライターたちの支援により財団が設立され、さらに財政を助けた。
96年のクリントン・橋本首脳会談では、日米間でさらなる人物交流を促進させようと、日本政府の拠出によるフルブライト・メモリアル基金(FMF)を設置、97年度の予算ではFMFのために10億円を充てた。ちなみにクリントン大統領はアーカンソー出身である。
そしてサンフランシスコ講和条約から50年に当たる2001年には、アメリカの支援が、戦後日本の復興のきっかけとなったとの感謝の意から、「A50」事業(AppreciationとAmericaの頭文字Aをとって)の一環として、フルブライト奨学金制度に寄付をし、同年から毎年10人のアメリカ人が日本に訪れることになった。
▼変わらないフルブライト交流の意義
かつてフルブライト計画は日本で唯一の公募によるアメリカ留学の機会だった。しかし企業留学、私費留学が当たり前になった今日だからこそ、フルブライトの目指した理想に立ち戻る必要があるのかもしれない─。
「私は、教育交流が人間同士に愛情を生むとは思っていない。それが教育交流の目的の一つであると思ったこともない。教育交流が、共通の人間性という感覚、つまり、他の国にはわれわれと同じように喜びも苦しみも、冷酷さも親切心もあわせ持つ個々の人間が住んでいるという主観的な意識の醸成に貢献できれば、それで十分なのである」
この改行は必要→
フルブライト奨学金が目指したものとは